なんでもイコールになる万能感と当たり前のスケベ心。


S と M の気持ちがシンクロしているとき、指先ひとつでも充分な調教が可能で、そういう意味では、サディストとしての資質に五体満足というのは必要不可欠ではないのかもしれません。突き詰めて考えれば、視線だけでも同じことは言えるし、究極としては、主がそこにいて、なんらかの意思表示をするだけでも、全身に痺れが走るようになることだって不可能ではないのでしょう。というか、長く SM に関わっている人であれば、それに近い経験の一度や二度はしたことがあるでしょうね。

その閾までいきたいと思う人はそれほど多くないので、理解されにくい部分だとは思います。趣味嗜好、タイプ、目的や求める相対関係の差異によっても目指す方向は違ってきますから、さきほど述べた「究極」という言葉も、適切かどうかはわかりませんね。

ある瞬間、そこまでの全能感に酔いたいときもあれば、ミニスカートを自らめくりあげて顔を赤くしている M の様子をニヤニヤ下心に包まれて眺めているときもある。スケベの S が圧勝しているときが多く、でもまぁ、それでもいいやと開き直る。

とにかく僕は、いろいろしたいわけで。

[ 2017/06/12 23:13 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

受動的な、誰


よく、世の中なんでも思い通りにはいかないから面白いんだ、なんて言葉を聞きます。

本当にそうかなと思ったりもする。

なんでも思い通りになる方が、面白いんじゃないかと。

反面で、それはその通り、と納得する瞬間もある。
思い通りにならないことを、思い通りに近づけていく過程はたしかに面白い。
満足いく結果にならず、悔しい気持ちを味わうことも、その後の自分次第で悪くはない。
どうやら世の中、なんだかんだで面白いんでしょう。

だいたい、深刻に厳しい状況にいる人は、面白いか面白くないかなんて気にする余裕はない。
「あぁ、面白いことないなぁ」なんて言ってる人は、贅沢なのか怠け者なのかどちらかで、面白いことないなんて言ってる暇があったら探し出して面白がればいい。

閑話休題

普段はうまく、周囲との調和を考えながら職場で働く僕なわけですが、どうしようもなく反社会的な一面はあって、強い破壊衝動に駆られるときもそこそこあります。誰にでもあることだと思います。

手に持ったガラスのコップを、そこに立つ誰かの横の壁に投げつけて割って、金縛りに遭うその誰かの肌を、落ちた破片で傷つけてやりたいと。気まぐれに蹴り、張り、絞め、踏み、朦朧と転がる誰かを見下ろして、唾棄する。それなのに憎しみも悲しみもなく、恨みも怯えもなく、ただ僕への理解と圧倒的な愛情で包み込まれることができたなら、誰かの瞳にその意志を感じ取れたなら、気を失って眠れそうですね。

などとサイコパスな願望を内に秘めつつ、安心してください、穿いてますよと。

理性と良心を脱ぐことなんて、誰かといたらできない僕は。

良いと言うまでそこで僕を愛でててください。



[ 2016/09/02 22:48 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

あなたにとって邪魔なもの


男と女がドア一枚を隔てて向かい合って立つ。

それほど厚いドアでもなく、互いの声は相手に通る。男は、上着を脱ぎなさいと言い、女はその言葉を聞いて軽く体に電流を走らせる。そしてはいと答える。

布ずれの音すら微かに聞こえそうな貧弱なドアを挟んで、女はゆっくりと指示を実行していく。下着は、外せと言われていないからそのままでいいのだろうか。露わになった両肩に感じる冷やりとした空気は、かえって体の内の熱さを意識させてくる。ブラジャーの肩紐が、不思議に強い圧力で肩の無防備を知らせてくる。薄っぺらいが透けてはいない、ドアの向こうにいる彼に、この姿は見られてはいない。

できたかと問われ、また「はい」と答える。いい子だねと優しい色を含んだ声音で包まれた直後、次は下だと命じられる。

喜びと少しの戸惑いと、さらに少しの屈辱感、そういうすべての気持ちの背景に、邪魔にならないくらいに見え隠れする悦び。脱ぐ前から外気が太腿に侵入してきたようで身震いしたくなる感覚。それがまた、彼女の真ん中を熱くさせていることに、自分自身も気がつく。

数秒の間で次々と訪れる感情の振れ幅に鼓動を速くしていると、聞こえたかと問う男の声が聞こえた。すぐにはっきり「はい」と答えようとして、意志だけが一人歩き、声に出せたのは消え入るような「はい」という言葉。

スカートを下し、下着姿になる。空気に触れる部分が広がり、中の熱さをますます意識する。脱ぎましたと報告したら、よく見えるよと返事がきた。見えているはずはないけれど、スカートを下した音は聞こえたに違いない。一枚のドア、こんなにも音を通すものなんだと妙なことに感心してしまう。

「そのまま足を広げて、両手を自分で後ろに組んで立ちなさい」

言われた通りにする。もう、声を聞くだけで体がぴくりと小さな反応を示している。洩らした吐息までは、さすがに聞こえていないだろうと思う。けれどきっと、洩らしているということはとっくに見抜かれている。

右手で左手首を握って、両足を肩幅に開いて立ちながら、ドア越しの視線を感じる。視線を感じるのか、視線を感じたいのか、頭の奥の方で欲が渦巻き状になる。目の前にはドア一枚。無機質なドア。下着姿で指示通りに立つ、自分の姿を見て欲しい、かもしれない。

気持ちは言葉にならないけれど、熱さは確実に浸透している。さきほど強く感じた肩紐の存在感、すでに湿っている部分を覆う下着の存在感、感じるほどにじれったさに似た気持ちが渦巻きの大きさを助長していく。キスをしそうでなかなかしない、ドラマの中の二人を見守る気持ち。

下着まで脱げと言われたらどんな気持ち、どんな感覚になるんだろうと、全身が想像したがっている。下着を脱いで、同じように立ち、ドアを開けた彼が近づいてきて、指を伸ばして、どうなるんだろう。

じれったさに似た、ではない。焦れているんだとどこかで認めて降伏したがっている。羞恥と常軌の防波堤が、渦巻きに侵食されそうになっている。下着の中は、まだこれだけで濡れてしまっているじゃないか。

「もう少し足を開いてみよう」

聞こえた声に安堵する自分がいる。どこまで開くのかわからずに、ただ素直に角度を広げる。体に絡みついている下着が不純で邪魔なようにすら感じる。全部を晒したいという欲望をほぼ全面的に受け入れる。息は荒くなる。洩らす吐息は聞こえなくても、溢れる喘ぎは届いていそうだ。

ドアも余計と貴女は思う。下着は窮屈で、距離はいらない。

「その通りだね」と彼は言う。

わかればいいとドアを開け、ブラとショーツにハサミを入れて、全部晒したあなたを指で貫く。

口も下も、彼の指を溺れさせようと濡れて包み込む。
泳いでいるのか溺れているのかわからない。
どちらがそうかもわからない。

不意にスパンキングされ、防波堤の決壊は加速。
解放される。


大きな声で叫ぶのは、気持ちがいいと体がわかる。





[ 2015/12/02 17:11 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

あれもこれも紙一重


一人称に僕を用いるこの僕も、実のところすでに37歳という年齢になっていて、自分の物の考え方や立ち居振る舞いの変化は自分自身でよくわからないけど、きっと人から見たら、ずいぶんと落ち着いたのだと思います。若者が大人ぶることはかろうじてできるとしても、37歳になると20歳の真似事はうまくできない。「無常」という真理はいまも昔も変わらない、唯一の「常」なのかもしれません。

SM は非日常的な行為だと思いますが、その目的は日常の活性化にあるわけで、日常の身近に存在していくことが肝要という気がしてきました。SM に興味を持たずに暮らしている人は、興味を持っている人に比べてどこか器用な部分があるんでしょう。非日常に頼らずに自分の調子につじつまを合わせることができる。僕なんかダメダメで、ふとした拍子に、手に持った受話器を窓ガラスに投げつけてやりたくなるんですけど、そういう気持ちをぐっと飲み込んで、サディスティックな自分に流し込み、別の、もっと濃密な気持ちに熟成させてから縄を持つことでゆっくりとじっくりと発散させていく。言い方は数あれど、いつも感じる SM 観はある程度同一で、無常のわりには成長しない自分にも腹が立ってきます。それで何かを投げつけたくなってあれこれ、な感じで。

[ 2015/10/27 22:47 ] SM and Sex | TB(0) | CM(2)

私の奴隷になりなさい


先日、遅ればせながら、というかいまさら、「私の奴隷になりなさい」をレンタルして観ました。

僕は、「これが SM 」という風に決めつけてかかることが嫌いなので、あの映画を観て、「あれは SM じゃない」とか「SM の本質を捉えた良い作品だ」とか、そういった視点からの批評をすることはできません。自分の主観と照らし合わせて考えてみると、予想していたよりは面白く、壇蜜さんありきの作品だとは思いますが、内容もそれなりに趣向が凝らしてあるものだと思いました。あとは、とにかくエッチで楽しめたと。

僕が思うに、自分の SM 観というものが確固としていて、相手との関係をそのように築き上げている人たちというのは、もうその時点で他者が何をしているかということは気にならないし、よって他者の SM に口を挟まないものです。他の人がどんなポリシーや理想を持っていても、それは自分とは別の世界のことであって、自分が模索する形を掴みはじめたら、他者への干渉なんか時間がもったいなくてしていられない。そういう域に達する人というのが、どれくらいの割合でいるのかわかりませんけど。少なくとも、私の奴隷になりなさいに出てきた、板尾演じる「先生」というのは(余談ですが、僕は板尾創路が大好きでして)、他の誰かをエセ S だといってバカにするような暇があれば、自分の M のことを純粋に考えるんだろうなと思えました。

そこへいくと、僕のような若輩者は、他の人のしていることに目を光らせ耳を尖らせ、つまり出歯亀的な意味合いから好奇心を抱き、あれはよかったこれは違ったと言いたくなるものです。自分自身の中での SM 観というのが定着していないから、何かほかのものに触れたときに、羨望の眼差しを送ったり、糾弾する言葉を探したりするんでしょう。

そこを超えると、他者の行為や経験に触れても、それをひとつの客観事実として受け止めることができて、批評の言葉を持てるようにもなるのかもしれません。SM にしろなんにしろ、どの道も深めていくにはストイックさや素直さ、穏やかさなどの誰もが少しは持っているけれど完全ではない幾多の要素が必要で、そうなれるまであとどれくらいかかるのか、想像するだけでも気が遠くなるというものです。

[ 2015/04/13 16:20 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

名残り雪から無常の形


三寒四温とはよく言ったもので、この一週間、温かい日が続いたと思えば雪も舞う寒さが戻ってきたりと、大気の気まぐれに翻弄される日々が続いています。職場の前に大きな桜の木があって、花が少しずつ咲き始めている。3分咲き、5分咲きとゆっくり歩を進めてきて、またここ数日の寒さで頑なになってしまいました。満開になると壮観なので、早くそうなって欲しいのですが。

4月に降った雪は、ややみぞれがかり、地面に落ちればすぐさま溶けて雨水との区別が曖昧に。それでも、桜と雪とを同時に眺めることができた贅沢なヒトトキは、思い出すたび感傷的な、刹那の感慨を幾度も届けてくれます。

いまは雨。雨音が響く窓に背を向けて、キーボードを叩いています。
先日の雪桜や、いま背後で奏でられる雨の旋律を意識すると、目の前のモニターに付いた小さな埃汚れも気になってしまい、手近にある布で丁寧に拭き取ってみる。次には、机の上が散らかっていることを嫌い、それも片付ければさらに周囲の雑多なものたちが落ち着かない。美の基準は人それぞれでも、誰でも愛でたいと感じる視界があって、瞬間それを手に入れることはできても、その場に居続けることは不可能に近い。無常ってやつですね。

瞬間を可視なものとする手段として、写真などがあるわけですが、写真に切り取られる風景は広大な空間の中のほんの一側面で、そのときその場の自分を取り巻いている時間の流れまでは組み込むことができません。もしできたとしても、それはそれでつまらない気もする。世の中のたいていのものは、制約があるからこそ価値を持つことができるのです。

制約がないものといえば、人の想像力であり、その中では誰もが、なんにも縛られることなく好きなように想像することができる。ところが、好きなように想像するその世界の中でも、なにかに縛られている仮定を欲することがほとんどで、それに気が付くと途方に暮れます。ちょっとしたパラドックスです。人が想像するとき、言葉が介在するのは当然になってしまうから、縛られずに浮遊することが難しくなるんですね。

だったら僕に縛られて、トバされるのもキモチいいでしょう。
涙すら濁り始める前に、あなたの美しいものを見つけるために、無常の中の刹那を感じましょう。


[ 2015/04/10 18:53 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

詰将棋のように紡ぎたい


ブログの再開と同時に、活字に対する欲求も高まってきていて、小説を読む時間が欲しいと思う今日この頃です。

小説は、読み手の想像力に委ねられる部分も多分に含むことで、だからこそそれでしか表すことのできない世界観を表現できるものだと思います。ある意味では、自分で納得のいく物語を書き終え、その作品を読んだ読者が深く感じ入るということは、言語によるコミュニケーションの完成形ともいえます。何をどう感じるのかは読み手次第という側面もありますが、書き手と読み手がぶつかり合うということではどの読者にとっても同じことですし。

SM というジャンルを描いた小説もたくさんあり、僕もいつか、自分の SM 観をそういった形で表現したいと考えたりします。将棋においてプロの棋士が指す一手一手のように、よく練りこんだ言葉を紡いで繋げ、自分の思う SM を表現しようとすることは、考えるだけでもわくわくしてくるものです。

[ 2014/11/13 20:33 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

70億人の赤ん坊


たとえ間違っていることでも、自分の言うことを認めて受け入れて欲しいという気持ちがあり、その気持ちが消化不足の状態で続いていると、やがて莫大なストレスとなり、体も心も重くなってくる。どこまでも自分が肯定されるなんてことは、社会で暮らしているとありえないことで、だからせめてひとときだけでも、すべてを肯定される自分になりたいと思う。

S男性は、そういう気持ちを強くもっていて、M女性の前で、さながら万能の聖人のように言葉を発し、その言葉を受けて従う女性を見て満足し、安心する。自分は自分でいいのだと。つまり我儘で、子供じみているということで、そんなS男性に付き合ってくれるM女性というのは、実はとても成熟した人なのかもしれないと思います。

持ちつ持たれつが基本なので、M女性の方にもメリットはあり、そのことによって満たされたり安心する部分があるのでしょう。表層化する方法が違っているから個性は十人十色で人それぞれのように見えるけど、根っこのところにある「求める気持ち」のありかたは誰もみな共通しているものがあるんじゃないですかね。一皮剥けば、みんなが赤ちゃんということです。

いつも気持ちよく大声で泣きたいものです。

[ 2014/11/12 16:34 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

砂粒より小さくてもそれがたしかにあるのなら。


昨日は雪が降り、車通勤の僕としてはヒヤヒヤでした。
子供の頃は雪の日は特別で、それだけで何か素敵なことが起こりそうな予感に包まれていましたが、いまは雪が降ると気をつけなくてはいけないことの方が多く、寂しいものです。

それでもやはり、雪というのは特別なもので、なにかにつけて感傷的な気持ちを誘ってきます。ついでに、性的な気持ちをも喚起してくるような気がして、なんの関連もないのに SM について想いを馳せたりもします。

おそらくそれは、僕が SM 好きだからであり、雪と SM の因果関係というよりは、自分が強くこだわっているものと雪との間の因果関係になるんでしょう。たとえばお酒が好きな人であれば、雪が降ればそれだけで肴となり、美味しいアルコールを堪能できるように。

現実的には難しいところだけど、雪景色を背景に緊縛された女性を眺めるとしたら、それはとても美しい。縛られて無防備に、漏れる吐息は白く、息遣いを視覚で感じることもできる。息の白さは熱となって僕の身体の内面に浸透してきそうで、その熱を動機に変えてカノジョに近づいて触れる。身体が冷えているのはカノジョも同じ。内から熱いのも同じ。指で触れればその部分だけは繋がって、そこにカノジョがいること、そこに僕がいることを確認しあえる。本来はひとつであった僕らが、いまも本当はひとつであるという事実を、あわよくば認められそうになる。

生に純粋であろうとするには、僕らの身の回りには余分なものが多すぎて、そのひとつひとつを脱ぎ去って晒せる相手が目の前にいるのなら、それはこの上もない幸福の瞬間です。不安や不満を抱えているのは誰でも同じだけど、それらを抱えたままでなお、完全な安心感を得ることもできます。奥深くに届くものを与え合えるように寄り添っていきましょう。届くものが大きさを持たない、たとえ砂粒よりも小さなものでも、それで充分なときってたくさんあります。



[ 2014/02/05 18:21 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

SM の。


スイッチを押す直前の期待感、押した瞬間の高揚感、その直後から始まる恍惚とする素敵な時間。それらすべてが好きです。

そういう流れをじっくりと楽しめるようになったのは、良いことなんだろうと思います。

我を忘れてむしゃぶりつく感覚も味わってみたい気はするけれど。

[ 2013/07/30 17:56 ] SM and Sex | TB(0) | CM(6)

彼女を殴って踏みつけるのは。


人に怒ることができないのは僕の欠点であり、怒りを覚えても、面と向かって話をしていると、相手の事情を鑑みて納得してしまうことが多いです。それは「僕を怒らせるような行動を取ったのには理由があるんだな」と納得するということで、怒りそのものは消えてなくなるわけではなく、かといってぶつける相手もいなくなるのでもやもやします。

そういうことはきっと日常生活のなかで少しずつ積もっていて、時々怒れない自分に気がつき、どうにも言い様のない孤独感や虚無感に襲われてしまう。誰かに怒れないということは、裏を返せば誰かのために喜べないということにもなると思うのです。どうも僕は、物事や心情を多面的に見ようとする意識が強すぎてしまい、主観的な物の見方を放棄してしまう傾向があります。完全な客観になれるのであれば、そこに息苦しさは感じないのでしょうが、僕の意思はそれとして残ってはいるものだから、それを消化できないことは苦しい。言ってしまうと本当にそうなるから、普段は気づかないフリをしているけれど。

そういう自分が、溜まった鬱積を晴らしたり、自分の能動性をさらけ出す場面が SM にはあり、それは単なるセックスではまだ物足りない。自分が自分らしさを保つために、必要なものであると実感します。僕はサディストとして居る男であり、そのためには僕の横暴を受け入れてくれる M 性を持った女性が不可欠で、カノジョの前に立つとき、僕は僕らしい強さと弱さを開き直れるのです。

「助けてくれ」と女性の優しさを求める男性はカッコ悪いと、そんな男に惹かれる女性はいないはずと、何年も何十年も思ってきましたが、どのような形であれ、誰かが誰かを求めているとき、助けてくれと願う気持ちがあるんだなとわかりました。その点を知るほどに、痛切な気持ちを込めて縛ることもでき、目の前の女性の美しさを引き出すことができそうです。いまならば、この指ひとつで何度でもあなたを導けそうな気持ちになって、たとえばとても離れていても、この声ひとつで導けそうな気持ちになって、奥に届かせるだけで壊せそうで。美しいあなたを縛り、だらしなく垂らす涎を眺めて、平手を飛ばして踏んでしまいたい。あなた以外への怒りを込めて、あなただけへの感謝を込めて。


[ 2013/07/14 23:30 ] SM and Sex | TB(0) | CM(0)

淫らな時を作りましょう。


おかしなことを頼むようですが、そうできる環境であれば、女性の方は四つん這いになって読んでもらえると助かります。詳しくは後述するように、足が痺れてるみたいでして。


起きてからずっと、つま先が痺れている感覚に付きまとわれています。本当はどうなのかわからないけど、血流が鈍くなっているような、その部分だけ体温が低く、冷たくなっているような。つまり疲労が足に出ているんでしょうね。
なので、帰宅したらソファに腰かけて、あなたを四つん這いにして、背中に両足を置いてゴロゴロさせたい。7月だし、当然全裸ですね。僕の足で背中をゴロゴロされるんだから、それは嬉しいでしょう。

嬉しくていいんだよと安心させるから、大丈夫です。


楽しそうだから、僕が帰るまでの間に、ローターやバイブを使って何度も寸止めのオナニーをしておいてもらおう。もうだめ、我慢できないというときにドアを開け、疲れたからそこにいてと四つん這いを命じる。遊んでいた玩具は中に入れたまま、スイッチは切って。戯れにオンとオフを楽しみたいから、リモコンローターがいいですかね。

足を乗せてゴロゴロして、寸前で我慢した快感を煽られているような宥められているような。

疲労が溜まっているとき、足先は腰よりも少し高い位置に置く方が良いから、あなたが快感に負け、手を崩して背中を崩せば、僕の足が疲れてしまう。こちらに悪気はないのだけれど、きっと僕は溜息をついてしまいます。声をかけるかもしれない。
あなたは頑張ろうと手を伸ばし、気まぐれなオンに遊ばれて震え、垂れ流れている愛液が絨毯に染みを作る頃には、さすがに両手も痺れてくるかもしれませんね。あなたの両手が痺れるほどに、僕の両足は休めているから、つま先の痺れが改善されていく。書いているだけなのに、とても感謝してしまいます。ありがとう。

痺れて崩れ落ちるのが先か、刺激や言葉に高ぶってイクのが先か。
どちらでもかまわないです。
崩れ落ちたら僕は立ち上がり、ぐいっとあなたの腰を抱えて引き寄せ、平手でお尻を叩きます。それでイクでしょう。崩れ落ちてからイクか、イッて崩れ落ちるかの二択なので、僕はどちらでもかまわないです。もちろん、そうなる前に僕の疲れが抜け、もっとあなたで遊びたくなる可能性もありますね。足の疲れがどうというより、仕事明けの心地良い睡眠欲に負け、足を投げ出したままで眠ってしまうこともあり得る。寝息が聞こえてきたら、慎重に動いて僕の足から抜け出して、そのあと僕のどこかに触れたまま好きにしてください。自慰でも奉仕でも。



なにがなんだか、たまにはなにかに酔って倒れて、淫らな自分で良いと思います。

ふと思ったのですが、「淫ら」とは基本的には女性を形容する言葉なんでしょうか。「淫らな男性」だと、どうもしっくりこないような。


[ 2013/07/05 00:13 ] SM and Sex | TB(0) | CM(4)